久武内蔵助が仁淀川の復讐をする時節が来た

 当時吉良親実は小高坂《こだかさ》――今の県立師範学校の裏手――に住んでいた。彼はその日限り、元親の前へ出仕することを止められた。久武内蔵助が仁淀川の復讐をする時節が来た。内蔵助は日々元親の傍で彼を讒謗した。 桑名弥次兵衛、宿毛《すくも》甚右衛門の二人は、元親の命によって小高坂の邸へ遣わされた。それは天正十六年十月十四日のことであった。親実はその日客を対手にして碁を打っていた。親実は取次が報知《しら》せてくると、おろそうとした石を控えてちょうと考える容《さま》であったが、「検使に来たと見えるな、今碁を打っておるから、碁が済むまで待たしておけ」 彼は静に石をおろした。客もその後を受けて石をおろしたが、その指|端《さき》は慄えていた。彼はその時二十六歳であった。そのうちに碁が終ってしまった。彼は客と石の吟味をした後に、己《じぶん》の石を碁笥《ごけ》に入れて盤の上に置いた。「それでは検使を迎えようか」 彼は悠々として表座敷へ往って検使を迎えた。桑名弥次兵衛は畳の上を見詰めながら元親の命を伝えた。「確にお受けいたした、人の運が尽きると、左前となって逆道が多い、逆道で家の立って往く道理がない、長宗我部の家もここ五六年じゃ」 親実は湯殿へ往って、冷たい水で身体を洗って帰り、二人の見る前で静に自殺した。死骸は吾川郡木塚村西分へ葬った。 元親の怒に触れて死を賜わった者は、他に比江山親興、永吉飛騨守、宗安寺真西堂、吉良彦太夫、城内大守坊、日和田与三衛門、小島甚四郎、勝賀野次郎兵衛実信の八人であった。その中で比江山親興へは、中島吉右衛門、横山修理の二人が検使となって往った。親輿は長岡郡比江村日吉の城主で、長宗我部家の老臣の一人であった。親興はその時、大高坂《おおだかさ》城の北に当る尾戸に邸宅を普請し始めたところであった。 勝賀野次郎兵衛には、土居肥前勝行をやった。勝行は検使と云うよりは殺戮使と云う方が当っていた。勝賀野次郎兵衛は親実の家来で蓮池にいた。「勝賀野は音に聞えた男じゃ、卒爾なふるまいして仕損ずるな」

— posted by id at 02:40 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.1924 sec.

http://universal-unity.com/